井戸田〜桜本町〜戸部神社〜呼続公園


概要
呼続は旧東海道の宮に入る前の場所で、七里の渡しの出航の合図が聞こえるほどの場所だった。
方や井戸田は旧東海道からは離れた場所。一見関係ないように思われるが、実は旧東海道以前の街道、
いわゆる、鎌倉街道としてつながっていたのである。
撮影:1996.10.20

◆井戸田〜呼続MAP◆
名古屋市瑞穂区:妙音通り〜南区:呼続
鎌倉街道は時代と共に少しずつ道を変えながら人々に使われてきた。
今回訪れた道で古鳴海から桜神明社の前を通り、井戸田に向かっていたと表示板に書かれてあったのを見た。
ここで、始めて鎌倉街道の存在を実感した時である。
旧東海道の整備以前の街道なので、笠寺は通っていなかったのが、新しい発見でもあった。
 鎌倉街道は京都と鎌倉を結ぶ街道で、別名「小栗街道」とも言われた。
名古屋市内の道筋は「尾張徇行記」などから推察されている。
 萱津宿から庄内川を渡り、東宿から上中村(中村公園、常泉寺、妙行寺、鳥居通り〜光明寺、西福寺界隈)から南下して米野村へ。
 米野村(若宮八幡社、黄金中学校)、黄金橋陸橋、善行寺、愛知小学校前、露橋(中川運河に掛かる小栗橋)、古渡村(城)地内に出て、御器所村界隈を経て南下。
 滝子界隈を通り、高田村(高田小学校:旧高田城)、大喜、井戸田村を経て、南下し、呼続界隈の桜村(桜神明社)から、古鳴海、伝治山、そして鳴海宿、有松へと抜けていたようだ。
 今では名古屋市の都市化にともなって、局部的に残っているに過ぎないのが残念であるが、井戸田界隈にはその面影が残っていた。   
◆井戸田と鎌倉街道◆
★井戸田は鎌倉街道の途中★
 国土地理院の地図から古代の海岸線を推定すると、井戸田は瑞穂大地の南端で、その南側は山崎川が流れています。もっと南下すれば、呼続に向かってまた上り、笠寺から星崎までが島でした。
 新瑞橋から平子を通り、天白川に向かって谷があったことが解かります。今では川替えのため天白川はずっと東側に流れていますが、大昔は天白川と山崎川は洪水のたびに合流していたのでしょう。天白川を渡れば鳴海・有松に出ます。
 鎌倉街道は古代の道で、大きな橋を架ける技術がない時代は、潮の満ち引きや川の氾濫など自然の地形に大きく左右されたのが読み取れます。
 そして、昔の旅人は神社の大木や寺院などの大きな目印を目当てに街道を歩いたのでしょう。昔の街道沿いに神社・仏閣が多いのもこれで理解できます。   
◆井戸田:長福寺◆
長福寺と山車
 長福寺には敷地内に秋葉神社(秋葉山)があり、神仏習合の名残か。
 その門前には約300年前の農民の喜びを今に伝える井戸田山車が保存されている建物があります。
 正徳享保年間の頃(1711-1736)、当時は天白川がここに流れていてたびたび氾濫して村人は飢饉にあっていました。
 そこで嘆願書を御政所に提出すると同時に若宮八幡(津賀田神社)に祈願をすると、川替がすぐに行われ以降水害は無くなりました。
 喜んだ村人は山車を若宮八幡社に献上し、豊作のたびに曳きまわしましたとあります。  
◆井戸田の山車◆
井戸田山車
 山車「の話に戻りましょう。戦争で焼失し、1950(S25)年に再現されたものが現在残されています。少し前までは津賀田神社の祭礼で見ることができたのですが現在は見ることができません。
 ここは熱田神宮と縁の深い地域で、井戸田山車は熱田天王祭の大山の流れを汲んだものと言われています。この写真は後日提供してもらった写真ですが、曳き回しが中止になる前の山車です。

写真提供:古橋正三氏  
◆龍泉寺の山門◆
龍泉寺
 長福寺の前を通り、南に降りると、緑に覆われ、神社のたたずまいを思わせるのが龍泉寺。
 顔が半分の歯痛地蔵があり、なでると歯の痛みが治まるといわれている。戦争の爆撃によって顔の半分を失い、体も2つに割れしまったとか。本堂なども再建されたとのこと。
 このあたりの爆撃も激しかったらしい。  
◆龍泉寺の亀井水◆
龍泉寺の亀井水
 井戸田の名前通り、昔からここには湧き水があり、亀井水と呼ばれています。熱田には亀が付く山号が多い。この名称も蓬莱伝説からきているのかも。
 源頼朝が熱田区白鳥の出生地(誓願寺)での産湯の伝承があるが、この水はその際に産湯の水として使われたらしい。これはお寺の外にある石碑。
 こんなところからも熱田とつながりがあるようだ。  
◆最経寺◆
神仏習合の最経寺
 龍泉寺の奥に最経寺。赤の鳥居と寺院の唐破風が並ぶ。
 神仏習合そのものである。この地域は明治維新の廃仏毀釈がなかったのだろう。
 最経寺は日蓮宗のお寺。赤の鳥居の最上稲荷(本山は岡山)。伏見稲荷、豊川稲荷と並んで日本三大稲荷だそうな。  
◆井戸田周辺の路地◆
井戸田周辺の路地
 空襲に遭ったとはいえ、井戸田周辺にはまだこんな路地が残っている。
 現在は建築基準法が摘要され道路は4m以上とされているが、
 新築工事の家が並ばなければ昔の路地が残ることになる。
 4mの根拠は火事が出た時の延焼防止の目的が大きい。
 しかし、最近では防火構造の対策が充実してきたため、
 場所によっては昔の町並みや風習を残すため、路地を残そうとする動きも出て来た。  
◆東宝寺◆
東宝寺
 新瑞橋から桜本町を南下して東宝寺に出る。桜中村城の家老屋敷跡とも伝えられる。
境内には「尾張徇行記」の著者である樋口好古撰の石碑「桜村固本碑」がある。
そして、以下の意味の文が刻まれている。「土地が荒廃した桜村の村民は生活に苦しんでいました。村の役人がその状況を訴えると、十年間年貢が軽減され村人は喜び豊かになった。」  
◆桜神明社◆
桜神明社
 5世紀末頃に作られた古墳の上に立つのが桜神明社。
昔の境内は松、杉などの大木が茂る広大な敷地で500坪はあったようだ。
分野迎山なる修験僧のお寺と神社が習合。鎌倉街道と塩付街道の交差するところで、交通の要所であった。  
◆桜神明社縁起◆
桜の語源
 昔このあたりを「桜村」と呼んだ。桜の語源は、谷や挟間を指す言葉に「さく」と「くら」というものがあり、ふたつを合体させたのが「さくら」になったそうな。
古代には「廻間(はざま)」「作良(さくら)」と呼ばれたらしい。
花の桜が語源でないのが面白い。  
◆富部神社◆
戸部神社(富部神社「蛇毒神社」)
 桜神明社の前を通り、戸部神社に出る。昔の東海道、笠寺を過ぎるとこの神社の前に出る。尾張名所図会にも紹介されている歴史ある神社で参道の構えが、立派であったのが伺える。
 名古屋市内に残された唯一の国の重要文化財指定 の神社だそうな。
 参道の横には山車蔵が見られる。今では引き出されなくなったそうな。当時の四層の豪壮なる山車をバックの記念写真を見れぱ、高砂車(1727年・享保12年)など祭礼時の華やかさが伝わってくる。  
◆戸部神社:社殿◆
戸部神社縁起
 南区の歴史探訪によれば尾張名所図会には蛇毒神社として描かれており,戸部天王とも呼ばれていました.
 創立は定かではないが、慶長8年(1603)清洲城主であった家康の四男・松平忠吉が病気平癒を析願、快方になった報恩として天主領百石を与えた。そして、慶長11年(1606)清洲から現在の社殿を移し、本殿、拝殿、幣殿、回廊を造営して以来、歴代藩主の敬神を受ける事になったとある。
 後に社殿が、この地方特有の尾張造りであることを知る。長く張り出した前方屋根や蟇股(かえるまた)は江戸時代の雰囲気があり、見事である。  
◆呼続公園の池と噴水◆
呼続公園と長楽寺
 戸部神社を見た後、呼続公園へ入る。ここも古代は桜神明社と同じように古墳の一角で高台から西の年魚市潟を望むことができたであろう。
 公園内は広く、竹林も広がり散策路が出来ていた。公園を一回りすると公園に隣接した寺を見つけた。
 動物供養で有名な長楽寺だった。境内には動物専用の火葬場、動物霊園、動物守護観音があります。サーブなどの盲導犬慰霊碑もあるとのこと。
 犬を飼っているから動物への愛情は理解できるが、仏教では人は五趣(天、人、餓鬼、畜生、地獄)を輪廻する明確な区分がある。犬猫などの動物は畜生にあたるが、お墓などを作って輪廻を願っているのか・・・
 新しい発見や街道への興味が湧いてきたウォーキングだった。  




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