祭りとまちづくり:祭事記
(堀川まつり:大まきわら船の復活まで)
祝い目出度の 若松様よ
水面に映る まきわらの
みよし流しの 宮の浜
エ−トソ−ラ− ショ−ンガエ−♪
 「まきわら祝い唄」より

第1章 起の巻:堀川まつりは偶然と出逢いから始まった

 昭和57年(1982)場所は南区内田橋の南:豊田本町(旧町名)、私はまだ独身で28才でした。
勤務していた建築設計事務所を退職後、独立して自宅にて図面を書いていたころ(初夏)。
毎年繰り出していたみこしが聞かれなくなった年のことでした。
<熱田天王祭:初期のキャラクター>
 
 その年 町内会長から、町内の青年諸氏に宛てられた手紙が私にも届きました。
内容は祭再興をするため青年部を作りたいと書いてあったのです。
 以前サークル活動からイベント参加の経験と、その時音楽バンドの活動していたこともあり、祭りを盛り上げるため何か役に立つのではないかと、青年部に参加することにしたのが、このまきわら船復活の初めの1歩だったようにおもいます。

 町内の祭りに参加
  次の年から、現在の堀川まちネットのメンバーの一部とお囃子 太鼓、笛、獅子舞等を創作し、町内の方々と相談しながら、追加してゆきました。
町内の理解も少しずつえられるようになり、子供を中心に盛り上ってきました。
 町内会、青年部、婦人会、子供会の連係もでき上ってきたのですが、みこしの担ぎ手が あまり増えていないことに気がつき始めました。
このままではみこしの担ぎ手も高齢化し、みこしが出せなくなってしまうのではないかと、考える人も出てきたのです。
 そんな事を考えていた1985年(S60)の秋、私も人並みに結婚することになり、実家の近く(南区)で住まいを確保していざ入居しようとしたところ。..
そこで1つ目の偶然が起こります。
 ある事情で他の人が入居することになり、現在の住居(熱田区)で熱田区民になったことが後々‘゛まきわら船復活”の大きなきっかけとなってゆきます。
 その後も祭りへの参加は続きますが、何か1つ足りないものがあるような気がしていました。
 1988年(S63)秋、1つ目の出逢いが始まります。
仕事上これからはコンピュークー化(CADイヒ)になる予想もあり、ある設計事務所の研修会に出向きました。
そこで、ミニコミ紙「あつたっ子」の企画発案者:M氏(T設計事務所勤務)との出逢いとなります。
M氏には「あつたっ子」の代表のN氏及び諸氏を紹介していただき、熱田の歴史、文化、風俗等を教えていただくことになります。
 その後「あつたっ子」にも参加し、当然 昔のまきわら船の勉強もすることになります。
私が参加してきた南区のまきわらみこしも、まきわら船がなくなったのを惜しんで、中止になった昭和50年の翌年に作られたものでした。
ところが、ある事に気づきました。まきわら船の中止になるまでの経緯がほとんど伝承されていない真実があったのです。
1989年から”偶然と出逢い”が何かに引き寄せられるように集中してゆきます。
 1989年(H1)夏 まきわらみこし行事を終え反省会の後、青年部有志の中でまきわらみこしを堀川に浮かべてみたいと言う話が、この頃自然に出てくるようになりました。

偶然:2は・・・ その年は名古屋市で世界デザイン博がありました。
大盛況の中、あるパビリオンに偶然に入ったとき、ある1枚のパネルの文字が私の目に入いりました。それが“熱田天王祭”との衝撃の対面だったのです。
熱田に明治時代までこの祭があったことと、そして昔は大山という山車があり、まきわら船ではなかったことなど、まきわら船のルーツがどんな経緯で船に代わったのか?この“熱田天王祭”を是非調べてみたくなりました。
 そんな頃、3つ目の偶然が起こります。
中日新聞から“ウーマン”のコーナーに「祭り大好き女性」を探している話が、偶然、内の奥さん(実は別な人が取材を受ける予定だったのが、都合が悪くなり、内の奥さんに打診があったんです)にあり、1989.9/2 1に掲載されました。
 なんと!ここから話が急展開し始めます。ある日のこと、新聞を見ていた静岡県庁の方から、内の奥さんに「祭り座談会」の出席依頼があったのです。
その座談会で2つ目の出逢い郷土芸能研究家:M氏,K「猫まつり」代表:I氏から貴重な話しを聞くことができました。
聞いてきた内容は、祭の基本概念と、原点からの出発。そして、祭り起こしのノウハウでした。
 今にして思えば、この話を聞いてなかったら、現在の堀川まつり(旧:熱田天王祭)の復活は出来なかったでしょうね。
 翌日から、「あつたっ子」の方々の協力を得て、熱田神宮,津島神社,洲崎神社などの取材をして全43ページの熱田天王祭復活案資料を仕上げたのです。
 1989 年(H1)暮れ さて、いよいよ資料がまとまり、3つ目の出逢いへと向いますます。
 相談のため出かけた「あつたっ子」の忘年会。そこで、世界デザイン博の火付け役であった故:K氏とT新聞のI氏が同席されており、この資料を読まれて、一気に熱田天王祭実行委員会の設立準備と機運が高まったのです。
<日本名所風俗図会:南新宮祭:大山車楽>
 そして、実行委員会設立と復活行事へと話しが具体化してゆきました。
その後、運の良いことに「あつたっ子」の皆さんが実行委員になっていただき「あつたっ子」十「熱田天王祭実行委員会」十「町内会」と言う強力な市民グループの基礎ができあがったのです。
1990年(H2)早春のことでした。・・・ところが・・・
 船をお願いする先が皆目検付がつかない現実に突き当ってしまったのです。一般の我々には港湾の船舶関係者との面識も無く、途方に暮れかけた・・・ある日。
そこで、偶然1の続きがあったのです。私のアパートの管理人:I氏に内の奥さんが、家賃支払のい時に祭の話しになり、偶然にも氏の父君が昔のまきわら船の材料提供者だったこともあり、心よく船の手配をしてくださることになづたのです。その時、寒い冬から、 その時、急に暖かいになり、パッと桜が咲いたようなとてもすばらしい偶然のめぐり合わせを感じました。また、内の奥さんの強運なこと!
その後 I氏のご紹介でH造船所:H氏にお会いでき、快諾の上台船の提供を受けることができたのです!\(^○^)/( ^^)/▽☆▽\(^^ )
 一息付く間もなく、今度は町内会の説得が待っていました。紆余曲折がありましたが、当時の青年部の団結と故:Y氏の説得により、何とか宮の渡しまでまきわらみこしを出す事が決定されました。
また、最後の強力な支持、及び町内調整に前町内会長のS氏、I氏のご尽力もありました。
 1990年(H2)6月5日こうして偶然と出逢いの末、マスコミ各社の取材もあり、小さな“まきわら船”の復活劇が始まったのです。思い起こせば、何の保障もない、前例もない復活行事に参加して下さった諸氏には顛が下がります。(画像:1990.6.6中日新聞より抜粋)
 翌年の1991年、ただ浮かべただけのまきわら船は曳き船関係者の協力もあり、曳き回しが始まりました。
1992年には待っていたかのように、協力者も現れ、まきわら船と一緒に随伴船も運航することになりました。
こうして、長年途絶えていたまきわら船の復活劇は、次の新しい段階を迎えることになるのです。
第2章 承の巻:祭りとまちづくりの三要素

博多祇園山笠:O氏との出逢い              
 1992(H4)夏:復活して1〜2年過ぎた頃今後の展開をどうするか、祭りはどうあるべきか、まちづくりに寄与できるものなのか、いろいろ意見が出始めた頃でした。
知人の紹介もあり、博多山笠世話役に会うため、博多まで取材に出かけました。O氏の持論「祭は祈り,祈りなき祭は祭にあらず」と言われるように,地域の町内会の祭りに対する強い意志と誇りに支えられ750年の歴史,まちづくりが行なわれてきたこと。
また町内組織、伝統、文化、若手の育成、時代に合わせた工夫などなど。博多っ子の心意気と文化論を博多山笠体験と一緒にと教えていただいたのです。
この取材と体験は熱田天王祭も博多山笠も同じ祇園祭りがルーツだったこと、そして知恵と工夫が二つの祭りの明暗を分けたことは、私にとって衝撃的な話でした。
そして、祭りの三要素を考える大きな大きなきっかけになったのです。
そして、悲しい別れ
 1993年(H5)堀川まつりはH社の来賓用の屋形船が参加し、9月には、いよいよ中まきわらの設計を開始。一回り大きいまきわら船の準備が始まりました。
 1994年(H6)祭とまちづくりの三要素の理論を再確認しようとした矢先、O氏の訃報をしったのでした。すぐ博多にも行けず、悲しく残念な別れとなりました。
 にも関わらず堀川まつりは太鼓連も加わり、益々賑やかさを増していったのです。7月の博多祇園山笠は喪に服し参加は取り止め、これで”祭とまちづくりの三要素”は理論的な確認を取れないまま、進むしかないと覚悟したのでした。
下記は西日本新聞のO氏を追悼した記事です。
            

新しい出逢い
 1995年、1年半に渡る設計と製作変更の繰り返しの末、ようやく中まきわらは完成し、一回り大きなまきわら船として曳き回されたのです。
この年、長年の懸案だった祭りの開催日も6月の第1土曜日に決定し、将来の大まきわら船の基礎となったのです。
 祭りが終わって、一息ついた頃、O氏の弟さんが兄に代わって博多祇園山笠参加の仲立ちと宿の世話をしていただくことになり、いよいよ”祭とまちづくりの三要素”の確認ができることになったのです。
それは、その後のまちづくりの理論を体得する大きなきっかけとなってゆくのです。
博多祇園山笠:名古屋組の誕生
兄に代わり面倒を見てくださったO氏と共に博多祇園山笠に参加。いままで、蚊帳の外だった祭り関係者の中に入り、1から祭りの基本を体得することとなりました。
O氏の宿が定着したため、名古屋の祭り仲間も参加し始め、名古屋組としていろいろな方々と知り合い、1つずつ750年の歴史やしきたりを覚え、皆で祭とまちづくりの理論を確認していったのです。


       博多祇園山笠ガイドブックより抜粋 →
イベントから祭りへのステップ
 1997年、祭とまちづくりの三要素に欠けていた要因。神事が加わることになりました。
それは、堀川の天王まつりの元祖とも言える、S神社の宮司さんとの出逢いでした。
 祭とまちづくりの三要素を説明したところ、快く承諾していただき、NPOの祭りでありながら、ここに”祭とまちづくりの三要素”の基本が全てそろった事になったのでした。
そして、安全祈願祭を行うため、堀川の天王祭りが始まって以来、初めてまきわら船が堀川をさかのぼってしまったのでした。
堀川まつりが立ち上がってから7年目のことでした。
祭とまちづくりの三要素とは


第3章 転の巻:まちづくりネットワークとNPO法人化

環境活動への展開
 祭りは続き、太鼓連、バザー、ステージも参加が増えた頃、名古屋都市センターの市民研究員への打診があり、第1回目の市民研究員として堀川の研究活動に加わりました。
振り返ってみると、この研究はその後の環境活動に大きな影響を与えることとなったのです。1998年のことでした。

クリーン堀川の設立
 翌年の1999年、いよいよ環境活動の展開が始まります。
堀川まつりの打合せの中で、船舶関係者から川の清掃をしたいとの申し出があったのです。
 堀川まつりの後、堀川一斉大そうじの企画を市民研究員として提案し、堀川沿いの市民団体にも呼びかけられ、清掃活動のあと、堀川沿いの協議会が設立する方向へ一気に進んでいったのでした。
そして2000年クリーン堀川が設立されたのです。
点から線へ線から面へ
 2000年、堀川まつりは船から山車へ展開し、新しい祭りの形態が始まりました。そして、2001年上流部での御葦刈取り神事を行い、祭りを通して、上流部とのネットワークが生まれました。
 2002年には中流部のE商店街との連携が始まり、祭りとまちづくり活動も新しい局面を迎えることになったのです。

 一方、博多祇園山笠では70年に1度の1番山笠の当番町に参加。名古屋組は3人揃って、台上がりを果たしました。流れのタイムも振興会始まって以来のぶっち切りの最高タイム。大きな満足感を持って名古屋に帰ってきたのでした。
夢の大まきわら船の復活
 2004年、またまた新しい局面を迎えます。それまで話し合ってきたNPO法人化をすることになったのです。
 32年ぶりの大まきわら船の復活を目標に、設立総会を開き、諸手続きを済ませ、2005年3月NPO法人の認証を受け、夢の実現に大きく踏み出したのです。
 祭りの開催日も7月に変更し、見事に大まきわら船は復活したのでした。その年は偶然、愛知万博の年でもあり、大まきわら船の曳き回しに名古屋港の花火が華を添えてくれました。
 祭りを復活して以来、幾度の継続の危機を乗り越え、16年目の夢の実現となりました。
都市景観賞受賞と次の展開
 その年の暮れ、嬉しい話が飛び込みました。なんと堀川まつりが名古屋市の都市景観賞「まちづくり部門」受賞したとの知らせでした。
 ここに、祭りとまちづくりの理論の継続の実践が都市景観賞となって評価されたのです。
 2006年東海道のつながりで桑名との交流が始まり、なごや環境大学学習講座を開催することになりました。
 その他、堀川の浄化実験、自然観察路の設置、宮の渡し界隈の再開発の話まで、いろいろな話が出始めています。
 さて、起承転結。起・承・転と来ました。今後この展開はどうなりますか・・・そして結末は・・・良い結びを夢見て・・・ひとまず、幕といたしましょうか。

祭りとまちづくりへ